2016年2月6日土曜日

~教会無所属信仰に至る道 PART 2~

聖書の中に、パウロという人物が記した書簡がいくつかある。
そこでパウロは、イエス・キリストを頭として、
互いにつらなる信者たちの全体を「エクレシア」と呼び、
それを一つの有機体に、団体に、
あるいは一つの複合的な建造物に例えたと総合的に解釈されている。
また、パウロの唱えた「エクレシア」は霊的な信仰の一致を示す団体であって、
制度としての結社的団体を意味したのではない。
ただしそれは霊的な信仰団体だけれども、現実の人間から成っている以上、
「目に見える交わり」がそこには存在する。
しかし「目に見える制度的結合・交わり」に、
「エクレシア」があるのではなく、
「目に見えない霊的一致・結合・交わり」に、
「エクレシア」の本質があるとパウロは説く。
それと同じように、「教会無所属信仰」は、
「目に見えない霊的一致・結合・交わり」に本質があると主張し、
最重要視する。
「目に見える制度的結合・交わり」を認めないのではない。
「目に見える制度的結合・交わり」のみによって、
キリストの救いに限界を定める解釈に対して極力プロテストするのである。

目に見える教会制度の特徴はその儀式にある。
カトリック教会は9つのサクラメント(秘蹟)と称される儀式がある。
プロテスタント教会はその内2つだけを保存して、聖餐式と洗礼式を実行する。
無教会はこれら2つの儀式さえも実行せず、
ただ信仰のみによってキリストにつらなることができると主張する。
多くのプロテスタント教会において、
洗礼という儀式を受けることが正式な教会員として登録される資格であり、
教会員として登録された者だけが聖餐式という儀式を受ける資格を持ち、
そしてその資格を持つ者だけが霊的な神の国の民だと主張するのに対して、
教会無所属信仰は、目に見える制度教会の教会員となることは、
霊的な神の国の民の一員となるのに必要な条件ではないと主張するのである。
そして、この純粋に霊的なエクレシアの把握こそが、
遠くは砂漠の神たる、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神への礼拝に淵源し、
直接には「霊と真実」をもって何処においても、
神を礼拝することができることを教えた(ヨハネ4:24)イエスの教訓に、
最も適うものだと考えるのである。

また、キリスト教会の歴史の初めに、
キリスト信者の中にユダヤ主義者というものがあった。
それは、ユダヤ民族以外の異邦人は、
まず割礼という儀式を受けてユダヤ人として登録されてからでなければ、
キリストを信じるエクレシアの一員として加えられないと主張するものであった。
それはイエス自身ユダヤ人であり、弟子もユダヤ人であり、
キリスト教はユダヤ人の中から生まれたからだというものである。
これに対し、否、割礼を受けることは必要な条件ではない、
異邦人は異邦人のままで、キリストをただ信じる信仰によって義とされ、
神の国の民になることができるとパウロは主張した。
このパウロの主張は、後に実際、
異邦人がキリストを信じて自他ともに、
彼らをキリスト者として認められた実績によって承認されたと、
聖書学者のダイスマンは述べている。
それと同じように、現在の日本においても、
洗礼を受けて教会員にならなくてもキリスト者であるという無教会の主張は、
無教会信者の実績によって世の承認を要求しつつある。
ただ、未だ少数の無教会信者が、キリスト教を伝道することは事実上難しい。
家庭礼拝・集会がゆえに、
全世界の無教会信者同志の連絡方法に課題があるからであり、
客観性に乏しいからである。
新しくキリストを信じようとされる方や、
聖書を学ぼうとする方は導かれるままに教会堂のある教会に行ってもよいが、
しかしまた、教会で洗礼を受けなくてもキリストを信じ、
神の国の民となれる「教会無所属主義」、
という道があることは知っておいても有益だろう。
それによって教会制度の不本意な束縛から、
解放される人々も少なくないであろう。

~教会無所属信仰に至る道 PART 1~

歴史的に、キリスト教の伝道が進むに伴い、
「教会」というものが組織されるようになった。
現在、世界には多数の教派に分かれて教会があるが、
イエスの復活後、使徒たちによって伝道が行われていた頃には、
現在見られるような多数の、そして制度的な教会はなかった。
聖書に「教会」と訳されている原語はギリシア語の「エクレシア」であるが、
これは元来ギリシャ諸都市の市民総会を指す語であり、
その原意は「呼び出す」という意味で、
使徒行録5:11で初めて使われたことが定説である。
市民総会を開催するとき、伝令で召集されたことからこの名称が使われたのだが、
イエスを信じる者たちは、この世から召し集められ、呼び出された者として、
ユダヤ人のシナゴーク(ユダヤ教会堂)と区別するため、
この「エクレシア」という語を用いて、
自分たちの集会を呼ぶ名称としたものと解釈されている。
最初は、コリントのエクレシアとかローマのエクレシアとかと言って、
地名を冠したエクレシア、すなわち信者の集会があるだけであり、
現在のように教派的に分かれた教会というものはなかった。
また、監督、長老、執事などの名称が、
使徒行録やパウロ書簡などに記されてあるけれども、
それらも現在の教会にあるような制度としての役名ではなかった。
特に、原文のギリシャ語で執事は「奉仕者」である。

当時の教会の実体は、ある個人の家庭で開かれた集会であり、
やはり家族的交わりの性格を持つものであった。
例えば、使徒行録1:12では、高間という表現で、
家の2階で集まっていたと解釈されているし、
1:15では「兄弟」という、家族を意味する言葉が初めて使われているし、
10章では、コルネリオは家で一行を待っていたと記されているし、
16:15ではルデヤが「私の家に来て泊まって下さい」とも記されていて、
その他にもたくさん例があり、
とにかく「エクレシア」というのは、
家族的交わり、家庭集会・礼拝の性質であったと解釈するのが定説である。
それが現在のような制度的教会に至ったのは、紀元2、3世紀以後のことであった。

そして、その頃になってもまだ、現在よく知られているような、
カトリックとプロテスタントの分かれはなく、
ギリシャ正教会、ローマ公教会、
アルメニヤ教会、コプト教会の4つの大きな分かれだけであった。
この内のはじめの2つはローマ帝国が東西に分かれた結果、
教会も2つに分かれたのであり、
ギリシャ正教会はロシア、ルーマニア、ブルガリア等、
東ヨーロッパ及びバルカン半島に地盤を持ち、
ローマ公教会はローマ法王を首長とするカトリック教会となる。

さて、その後、数世紀を経て、カトリック教会の制度上の問題に、
ルターやカルバンなどで有名な宗教改革者が、
カトリック教会にプロテスト(抗議という意味)し、
それによってプロテスタントという新しい教会運動が起こったのだが、
そこからさらに聖公会、長老教会、メソジスト教会、バプテスト教会、
その他多くの教派に分かれて止まるところを知らない。
カトリックの中でも、いくつかの教派に分かれているが、
一応、カトリック教会としてはローマ法王を首長とする世界的組織であるのに対して、
プロテスタント諸教会は世界的統一的組織をもたない分派が特徴である。

~信仰の純粋性~

教派が現在のようにたくさん存在している以上、
個人の考え方や顔が千差万別であるようにキリスト信仰の捉え方について、
多少のニュアンスの違いが各教派によって生じることは自然なことである。
しかし、各教派・教会が一定の制度と組織を持つことによって、
福音信仰の個人の純粋性を害するようなことがあれば、
教会という制度はキリストの福音信仰にとって益をなさず、
かえって有害の作用をなすおそれがある。
史実として、各教派・教会が、
利益や勢力や拡張を福音信仰そのものよりも重要と考えるような、
実際的行動をとってきたことは否定できない。
かくして、宗教改革はルターやカルバンをもって終わらず、
いつの時代にも信仰の純粋性を回復するために必要なのである。
ここにおいて内村鑑三の唱えた「無教会信仰」というのは、
ルターやカルバンなどがローマ・カトリック教会に対して、
宗教改革を主張したことに匹敵する、否、
それ以上の重大な意義を持つ新しい宗教改革である。
ルターやカルバンはカトリック教会にプロテストして、
人はカトリック教会につらならなくとも、
キリストを信じる信仰だけで救われると主張したが、
しかし彼ら自身はやはり制度と儀式を持つ教会を組織し、
キリストを信じる者は全てどこかの教会の所属員であるべきものとして、
所属員でないキリスト者はありえないと考えた。
この教会所属主義にプロテストして、
カトリックであろうがプロテスタントであろうが全て教会制度は、
キリスト教において本質的なものではなく、
人は教会の所属員にならなくても、
キリストを救い主と信じる信仰だけで神の国の民となれると主張することが、
「教会無所属信仰」である。
これによってキリストの救いは制度教会の枠を出て、
真に全ての人に自由に解放されたのであり、
キリスト教史上この画期的に重大な意義は、
後世の歴史家を待たずして知られるだろう。

~キリストホームミーティングという名を付けた理由~

エクレシアにおける霊のつながりはできるだけ強固であり、
制度的にはできるだけ緩いことがエクレシアの本質にかなうものであり、
その性質は家庭的であるから、
エクレシアに存在する秩序の性質も家庭的である。
これらの理念に基づき、このブログと実際の礼拝所を、
「キリストホームミーティング」と名付けた。

~キリスト教会の本質~教会とは何であるかという問題提起

教会の本質は建物ではない。教会堂ではない。
教会の意味に建物や教会堂を含めてしまうと、
教会堂の建設と維持に労力と費用を投ずることになり、
最も大切な「信仰」という行為以外の余計なことまで考えなければならなくからである。
「信仰」以外のことは全て二義的なものである。

教会の本質は制度や組織でもない。
教会の意味に制度や組織、さらに伝統を含めてしまうと、
霊的に愛する家族たるべき兄弟姉妹のキリスト者同士が、
各人がそれぞれ「信仰」とは別の、
二義的である制度や組織・伝統への価値観や意見を持つようになり、
外見の制度的・組織的一致を求めるようになり、最終的には分裂したり、
各人の魂や意思・自由を束縛して本末転倒な結果を招く。
それは現在のキリスト教会で一般的に行われている形式、賛美の音楽、交わり、
レクリエーションなどにもあてはまる。
人が意見を持つことは全く悪いことではないしむしろ当然であるけれども、
それらも全て最も大切で必要な「信仰」にとって二義的である。

キリスト教会の本質は愛のコイノニア(真の交流)である。
霊的に愛する家族たるべき兄弟姉妹の目に見えない愛の交わりがエクレシアであり、
そしてそれだけが真の教会であることを主張するのが「教会無所属信仰」である。
それは歴史的な全ての宗教改革者と同じ精神に立つものであり、
それら全てよりさらに一歩を進めたものである。

建物も制度も全て二義的であり根本的ではないから、
それに労力をかける必要と価値はほとんどない。
ゆえに、労力をかける必要と価値がほとんどないのなら無くても良いと帰結できる。
現在においてキリスト教会の建物や制度は、
既に現存しているからそれはそのままあっても良いが無くても良いと主張する。
「教会無所属信仰」は、「教会には建物や制度が本質的に無くてはならない」
との考え方に極力プロテスト(抗議)するのである。

ただしエクレシアという愛の交わりは、
具体的な生活となって現れなければ意味がない。
たとえばエネルギーは目に見えるものではなく現れてはいない。
しかしエネルギーが電気となって電灯になって灯るとか、
電熱器となって湯を沸かすとかマッサージ機として体に刺激を与えて初めて、
私達の生活に具体的に現れて意味を持ち役立つ。
しかし、たとえ1,000人が集まって聖書を学び、
賛美歌を歌って交わりが具体的に現れていたとしても、
心と愛がそこになければそれは単なる群衆であり烏合の衆である。
したがって必ずしも一定の場所に集まる必要もなく、
一緒の場所に集まる必要もなく、
文通でも良いし、現代では感謝なことに、
ネットによって何時でも何処でも全世界の人々と親密に交わることも出来る。
神はインターネットという素晴らしい文明の利器を人類に与えてくださった。
現代においてはSNSのページで真のコイノニアも可能である。
筆者がそれを充分実感・体験しているからである。
そしてまた、この「教会無所属信仰」の立場に立つとき、
ある事情で今週も礼拝式に出席できない、教会に行けない、
という自責の念を持つこともない。対人関係でつまづくこともない。
それらの事を一切忘れて純粋な信仰生活を送ることができるのである。