2016年2月6日土曜日

~キリスト教会の本質~教会とは何であるかという問題提起

教会の本質は建物ではない。教会堂ではない。
教会の意味に建物や教会堂を含めてしまうと、
教会堂の建設と維持に労力と費用を投ずることになり、
最も大切な「信仰」という行為以外の余計なことまで考えなければならなくからである。
「信仰」以外のことは全て二義的なものである。

教会の本質は制度や組織でもない。
教会の意味に制度や組織、さらに伝統を含めてしまうと、
霊的に愛する家族たるべき兄弟姉妹のキリスト者同士が、
各人がそれぞれ「信仰」とは別の、
二義的である制度や組織・伝統への価値観や意見を持つようになり、
外見の制度的・組織的一致を求めるようになり、最終的には分裂したり、
各人の魂や意思・自由を束縛して本末転倒な結果を招く。
それは現在のキリスト教会で一般的に行われている形式、賛美の音楽、交わり、
レクリエーションなどにもあてはまる。
人が意見を持つことは全く悪いことではないしむしろ当然であるけれども、
それらも全て最も大切で必要な「信仰」にとって二義的である。

キリスト教会の本質は愛のコイノニア(真の交流)である。
霊的に愛する家族たるべき兄弟姉妹の目に見えない愛の交わりがエクレシアであり、
そしてそれだけが真の教会であることを主張するのが「教会無所属信仰」である。
それは歴史的な全ての宗教改革者と同じ精神に立つものであり、
それら全てよりさらに一歩を進めたものである。

建物も制度も全て二義的であり根本的ではないから、
それに労力をかける必要と価値はほとんどない。
ゆえに、労力をかける必要と価値がほとんどないのなら無くても良いと帰結できる。
現在においてキリスト教会の建物や制度は、
既に現存しているからそれはそのままあっても良いが無くても良いと主張する。
「教会無所属信仰」は、「教会には建物や制度が本質的に無くてはならない」
との考え方に極力プロテスト(抗議)するのである。

ただしエクレシアという愛の交わりは、
具体的な生活となって現れなければ意味がない。
たとえばエネルギーは目に見えるものではなく現れてはいない。
しかしエネルギーが電気となって電灯になって灯るとか、
電熱器となって湯を沸かすとかマッサージ機として体に刺激を与えて初めて、
私達の生活に具体的に現れて意味を持ち役立つ。
しかし、たとえ1,000人が集まって聖書を学び、
賛美歌を歌って交わりが具体的に現れていたとしても、
心と愛がそこになければそれは単なる群衆であり烏合の衆である。
したがって必ずしも一定の場所に集まる必要もなく、
一緒の場所に集まる必要もなく、
文通でも良いし、現代では感謝なことに、
ネットによって何時でも何処でも全世界の人々と親密に交わることも出来る。
神はインターネットという素晴らしい文明の利器を人類に与えてくださった。
現代においてはSNSのページで真のコイノニアも可能である。
筆者がそれを充分実感・体験しているからである。
そしてまた、この「教会無所属信仰」の立場に立つとき、
ある事情で今週も礼拝式に出席できない、教会に行けない、
という自責の念を持つこともない。対人関係でつまづくこともない。
それらの事を一切忘れて純粋な信仰生活を送ることができるのである。