2016年2月6日土曜日

~信仰の純粋性~

教派が現在のようにたくさん存在している以上、
個人の考え方や顔が千差万別であるようにキリスト信仰の捉え方について、
多少のニュアンスの違いが各教派によって生じることは自然なことである。
しかし、各教派・教会が一定の制度と組織を持つことによって、
福音信仰の個人の純粋性を害するようなことがあれば、
教会という制度はキリストの福音信仰にとって益をなさず、
かえって有害の作用をなすおそれがある。
史実として、各教派・教会が、
利益や勢力や拡張を福音信仰そのものよりも重要と考えるような、
実際的行動をとってきたことは否定できない。
かくして、宗教改革はルターやカルバンをもって終わらず、
いつの時代にも信仰の純粋性を回復するために必要なのである。
ここにおいて内村鑑三の唱えた「無教会信仰」というのは、
ルターやカルバンなどがローマ・カトリック教会に対して、
宗教改革を主張したことに匹敵する、否、
それ以上の重大な意義を持つ新しい宗教改革である。
ルターやカルバンはカトリック教会にプロテストして、
人はカトリック教会につらならなくとも、
キリストを信じる信仰だけで救われると主張したが、
しかし彼ら自身はやはり制度と儀式を持つ教会を組織し、
キリストを信じる者は全てどこかの教会の所属員であるべきものとして、
所属員でないキリスト者はありえないと考えた。
この教会所属主義にプロテストして、
カトリックであろうがプロテスタントであろうが全て教会制度は、
キリスト教において本質的なものではなく、
人は教会の所属員にならなくても、
キリストを救い主と信じる信仰だけで神の国の民となれると主張することが、
「教会無所属信仰」である。
これによってキリストの救いは制度教会の枠を出て、
真に全ての人に自由に解放されたのであり、
キリスト教史上この画期的に重大な意義は、
後世の歴史家を待たずして知られるだろう。